大阪城東福音教会

聖書の人物を訪ねて


ぺラテヤ


 バビロン捕囚を免れた指導者たち25人がエルサレムの神殿東門に集まる中にぺラテヤがいました。 彼の名が記されていることで、彼がリーダー的存在であることが分かります。この集まりを見ているのは バビロンにいる預言者エゼキエルです。エゼキエルは神の霊によってエルサレムに導かれ、人々の行動 を見せられています。エゼキエル書では霊の世界の不思議なことが多く記され、いかに神秘で深いかが 教えられます。

 25人は指導者ですが神のみ心に従おうとしていません。エレミヤの預言通りにバビロンに行くべきでし たが、エジプトや他の国と同盟を結び滅びから免れようと考えていたのです。「この町は鍋で、われわれ は肉である」と考えていました。その意味はエルサレムの城壁は鍋のように頑丈で、肉とはその中にとど まっている自分たちこそ最良の者だと考えていたのです。 BC597にバビロン捕囚された人たちは捨てら れた骨の部分だと決め付け、捕囚された民に対する何の憐れみも示していません。指導者は自分たち の知恵により頼み、バビロンに捕囚されることを認めませんでした。預言者エレミヤを通して語り続けら れた神の明確な導きであるバビロン行きに対して、彼らは心を硬くして逆らっていたのです。み心に逆ら う生き方は不従順そのものです。彼らに対して神様は「これらの者はこの町の中で悪いことを考え、悪い 計りごとをめぐらす人々である」とはっきりと言われました。

 指導者たちが願っていたようにエルサレムに住む者は城壁で守られ、身の安全な場所とはならず、神 の審判が下される町となり、自分を肉と誇る人たちは他国人に裁かれ、殺されると言われました。このこ とであなたがたは主の言葉が真実であることを知ると言われました。その言葉をエゼキエルが預言して いた時にぺラテヤが急死したのです。このことは不従順な生き方をする者に対する厳しい裁きであり、残 った指導者24人にこれからの生き方をどうするかを問われたのです。自分を神より上に置くなら、神は そのような人を「彼らの正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられる」のです。(ロー マ1:28)このところから神の峻厳さを学ぶことが求められています。 参照 エゼキエル11:1~16