大阪城東福音教会

私の信仰

「すべては救いのため」


  主なる神は、使徒パウロを通して数々の偉大な御業(しるしと奇跡と力あるわざ)を現わされました。 しかし、神はパウロが自分の肉体のとげ(「目の病」と思われる)を取り去って下さるようにと特別に 3度も祈ったにもかかわらず、その願いを実現されませんでした。病のゆえに人の助けを必要としてい たパウロは「この病が癒されたならば、今以上に主のための働くことができる」と考えたと想像できま すが、神の御旨は彼の思いとは異なり「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱いところ に完全にあらわれる」と告げられたのです。この時、パウロは悟りました。「このとげは自分が高慢に ならないために与えられたものである」と。(コリント人への第二の手紙12章7-9節)

 今から二十数年前に個人預言の中で「あなたが傲慢、高慢になることをゆるさないと主は言われてお ります。」との言葉が与えられました。私は十九才で洗礼を受けてから今に至るまで、自分なりに信仰 を貫いてきたつもりではありますが、客観的に自分を見ると『祝福に満ちたクリスチャン』とは思えな い部分が少なからずあります。「主を信じて歩んでいる者を、祝福してください」と悩み祈ることが何 度もありました。しかし、もしもすべて自分の願い通りに主が事を進めて下さっていたとすればどう なったでしょうか。きっと「私が正しい信仰者だからだ。」との思いが起こり、他の人を裁く者、まさ に傲慢、高慢な者となっていたことでしょう。

 「災もさいわいも、いと高き者の口から出る」(哀歌3章38節)との御言があります。なぜ神が幸 いだけではなく災いを下されるのでしょうか。それは『すべての人を救いに導くため』だと主は教えて くださいました。幸いだけを受ける人は、口先では感謝をささげても、その心にはいつか必ず高慢な思 いが芽生えてくるのです。高慢は神が最も嫌われる罪の一つです。神が試練や災いを与えられるのは、 私たちを訓練し、祈りに、悔い改めに、そして救いに導くためなのです。

 神の御心は「ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至る」(ペテロの第二の手紙3章9 節)ことです。神が与えられる幸いも災いもすべては私たちの救いのためであり、そこには人の思いを はるかに超えた神の素晴らしいご計画があることを知る者となりましょう。