大阪城東福音教会

私の信仰

「「神 の言」を慕い求めて」


 日曜の朝の礼拝 堂、懇々と真理を説くY兄弟がいる。いかにして世の中を渡っていけばよいか、どうすれば成功を治められるのか、勿論そのようなハウツーもので はない。また人の関心を得ようと聖書の言葉を割り引いて用いるでもない。世の多くの人は無益だと背を向けるかもしれないが、礼拝の中で語られ る神の言は文字通り信じる者を生かす霊の糧となる。メッセージに耳を傾けながら、私は別のある場面を重ねて思い浮かべていたーイスラエルの民 がバビロン捕囚から帰還し、城壁が再建されたときのこと、祭司であり学者でもあったエズラが律法の書を会衆の前で朗読した、その記述場面だ。

 「彼が書を開くと、すべての民は起立した。」
 ネヘミヤ記8:5


 「彼らはその書、すなわち神の律法をめいりょうに読み、その意味を解き明かしてその読むところを悟らせた。」
 ネヘミヤ記8:8

 「彼らはその所に立って、その日の四分の一をもってその神、主の律法の書を読み・・・」
 ネヘミヤ記9:3

 霊的回復のためには、神の律法(御言葉)が不可欠だったと想像できる。現代を生きる私たちにも同じことが言えるのだろう。神の言に際してい かにあるべきか、顧みてはあらためて考えさせられる主の日である。

 今病床にあるN兄弟のことを祈るとき、反芻してかみしめる事がある。思いがけず病を得た兄弟は、辛い治療を経て、短期間に体重が激減したと いう。彼には遠方に住む娘さんがいる。電話口で聖書を音読してもらい、父と娘は心を合わせて祈りの時間を持つ―肉体は弱り、声にも力がなく なっているはずの兄弟が、そのときには驚くほど大きくて、はっきりした声で呼応されると伺った。寧ろご自分から御言葉を読んでほしいと願い、 娘さんもどの箇所がいいだろうかと父親の心を思いやりながら聖書を開くそうだ。 あゝ、N兄弟を生かしているのは、御言葉なのだ、そのことを 目の当たりにする思いである。

 「道々お話しになったとき、また聖書を説き明 してくださったとき、お互いの心が内に燃えたではないか」
 ルカによる福音書24:32

これはエマオへの途上、復活されたイエス様に出会っても気付かなかった二人の弟子、彼らの目が開けたときに互いに言ったことばだ。

礼拝メッセージの終わりに聖歌を歌うよう、Y兄弟が導く。そのとき、体の奥底から熱いものがたぎり湧き上がってくるのを覚えることがある。まことに神の言は生きていて、力があり、信じる者のうちに働くのだから、 日々私も小さな証を重ねてゆこう。