メッセージ
「人をさばくな」
牧師 大倉 昭元
先日夫婦問題で悩んでいた方が『先生、私ね、服装もきっちりせなあかんと思うようになりました。それは主人のためです・・・、勿論私自身にも必要なことですしね!』と語ってくれました。その方はこれまで家庭内の問題のすべての原因は主人の側にあると考えておられたのです。なんとか問題を解決したいとそれなりの努力もし、自己改善も試みたことでした。私はこんなにまで苦労しているのに、主人はわかってくれないし、努力すればする程夫に対して不満がつのる一方でした。
人の心の中には相手を受け入れるよりも、さばきやすい傾向があります。どのような問題であれ、相手をさばきつつ、なんとか解決しようとしても、そこから答がでるはずがありません。さばかれている人にとっては、自分の側に落度があると気付いても素直になれず反発してしまうのです。
山上の垂訓でイエス様は『人をさばくな。まず自分の目から梁を取りのけるがよい』といわれました。人が人をさばくということはとてもむつかしいことです。裁判にしましても、両方の意見をよく聞いた上でしか判決を下すことができません。しかし、私達が人をさばく場合の基準は自分にあります。自分にとって相手がプラスかマイナスかで決められてしまう傾向が多分にあります。聖書を開いてその自分の心を深くみつめていくならば、どのような答を見い出すでしょうか。
・自分のことしか考えない心 ・相手ばかりを責める心 ・ゆるせない心 ・復讐心 そのような心の持ち主がどうして相手を批判したり、罪を指摘できるでしょうか。神のみ前で自分の心が正しくないことがわかるとき、これまでの批判的なスピリットがどんなに恐ろしいことであるかがわかってきます。
汚れた心を素直に認めることができれば、キリストの十字架も悟れます。あなたの罪を取りのぞくために身代わりに死なれたのです。心から悔い改めてイエス様を信じる時から、あなたの心がかわります。また、これまでのようにさばく気持ちで語っても何一つ答が出なかったのは自分の側にこそ問題があることがわかります。
イエス様を信じ、罪ゆるされたことを感謝している人の心は平安になり、これまでのようなさばく思いがなくなります。そして、自分を変えて下さったお方(イエス・キリスト)はかならず相手をもかえて下さると、相手のためにも祈りつづけていくことができるのです。生きているかぎり、いつも人との問題で悩むことが多い毎日ですがどうぞ答の出る、幸せになる方法でこの人生を生きていこうではありませんか。
*大阪城東福音教会記念誌『福音のしもべ』より城東福音ニュース1984年10月号を掲載いたしました。