大阪城東福音教会

メッセージ

「神様の中にある幸せ」

牧師 大倉 昭元


 幸せになりたい―これはすべての人の心にある願いの一つです。確かにだれひとりわざわざ不幸になりたいと考える人はいません。いざ、幸せとは何かと考えてみますとひとそれぞれの意味がちがってくるのではないでしょうか。

 今日は聖書の人物ダビデのことばから学んでみましょう。

「不法をゆるされ、罪をおおわれた人達はさいわいである」(ローマ4 : 7)  ダビデはイスラエルの王です。彼の幸せということばに物質的なものは何も含まれておりません。ダビデは王としてありとあらゆるものを所有していました。もし物質的なもので、幸せの基準が決められるなら彼がその国で一番幸せな人になっていたことでしょう。

 彼は王であるにも拘わらず、二つの大罪―姦淫と殺人―を犯してしまいました。誰にもわからずにしたことをよいことに、これまでと変わらない生活を送っていました。

 それはあくまでも表面的なことで、心は良心のせめを感じ、不安になり、眠れぬ夜を迎えるようになりました。一度失った平安はもどってきません。ここに罪の恐ろしさがあります。

 人が知らなくても神様はすべてを御存知です。一人の預言者によってその罪が指摘された時、ダビデは即座に「私は主に罪を犯しました」と告白しました。神様からの罪ゆるしを得るや、彼の汚れ、傷ついていた心が回復されたのです。罪がどんなものであっても悔い改めるなら、ゆるしを得ることができます。

 ダビデが幸いと叫んだことばは原語で祝福されるという意味があります。罪ゆるされてはじめて、神様との交わりの中に入れられるのです。幸せは物質の多少に関係ありません。環境の良し悪しにも関係ありません。ただ幸せの源である神様と正しい関係にあるかどうかということです。その時、人間の本質である魂が生かされ、生き生きとしてくるのです。幸せ―それは神様の祝福の中に生きる生活です。幸せは山のかなたの空遠くに存在するのではありません。

 あなたの側にあるのです。罪―どんな小さな罪でも悔い改め、神様と正しい関係にしていただこうではありませんか。




*大阪城東福音教会記念誌『福音のしもべ』より1983年8月号を掲載いたしました。