大阪城東福音教会

メッセージ

「荒野で呼ばわる者の声」
     マルコ1:3

フェイスチャーチ牧師 中村 浩幸


 かなり昔のことですが、沖縄において、ある伝道者との出会いがありました。その方は素晴らしいメッセンジャーで、そのメッセージで多くのたましいが救われていました。私はその方に、自分にはメッセージがどうしてもできないと打ち明けました。その時、その伝道者が私に語ってくれました。
「バプテスマのヨハネは『声』といわれました。声は人間ではありません。ですから、何も考えません、ただ、神の言われたことを語るだけなのです。」それを聞いて以来かなり楽になり、主の奉仕をすることができるようになりました。
 カトリックではありますが、マザー・テレサは含蓄のある言葉を多く語っています。その中の一つに次のような言葉があります。「神の愛の宣教者会」の設立許可を得るのに、説明を求められ、数日にわたる沈黙の後、マザー・テレサはセラーノ神父に語ります。「私のしてきたことは全て神のご意思です。主は言われました、『我が兄弟たちにお前がしたことは全て私にしたことだ。』」セラーノ神父は尋ねます。「神に選ばれたと?」「いえ、とんでもありません。私は、神が手に持つ小さな鉛筆です。文字を書くのは神ご自身です。」(映画「マザー・テレサ」より)
 私たちは神の奉仕をするとき、あまりにも多くのことを考えすぎてしまいます。自分のようなものがして良いのか、人はどう思うだろうか、もっと良いものを作らないと・・・、しかし、大切なのは、神の意思を知って、それをただ実行することだけです。その結果は、神の領域です。主が責任を負って下さいます。なぜなら、私たちは主の声に従っただけなのですから。主は、その声を聞いて、それをただ行う人を求めておられます。

 オリンピックが今まさに宴もたけなわです。日本人の金メダルが続出で、その努力の成果に感動せずにいられません。彼らからは色々なことを教えられます。ただ、マスコミがあおりすぎているのではないかと私はラジオを聞いていて感じることがあります。盛り上げている以上のものが見えるのは私だけでしょうか。すばらしい結果を求めて努力する人生は、数ある人生の一つに過ぎないと思うのです。
 バプテスマのヨハネはそれとは違っていました。彼は「声」としての働きをしますが、最期にはヘロデ王によって首を切られてしまいます。彼の人生は惨めで、虚しかったのでしょうか。いえ、決してそんなことはありません。彼にとって、みこころに従うということ自体が喜びであり、彼はそれ自体に生きがいを感じているのです。「声」は、それ以上の何かを求めることはありませんでした。
 私たちはみことばに従って生きた時、御国において、イエスさまご自身がその手で私たちに栄冠をくださることを知っています。ですから、何も余計なことを考えないで、ただ、イエスさまの声、イエスさまの手にある鉛筆でありたいものです。