聖書の人物を訪ねて
祭司 ピネハス
ピネハスは祭司として神の聖さを大切にした生き方をした人物です。出エジプトした民は40年間の荒野 を旅する間、何度も神につぶやき、また不信仰を繰り返しました。いよいよ約束の地カナンの地に行くた
め最後の宿営地シッテムで準備をしていました。しかしそこに住むミデアンの娘らと関係を持ち、彼女ら が信じる偶像を拝みだしたのです。普段信仰に全く関心がないという若者でも入試時期になると神社に
お参りに行く人が増え、お守りを持って受験場に行きます。宗教を自分の都合で利用する人はいつの時 代でもいるものです。
偶像を拝み、ふしだらな行いをした24000人もの人々が神が送られた疫病で滅ぼされました。その中に は民のリーダーたちが多く含まれ、いかに罪の影響力が強いかが分かります。その中の一人ジムリのこ
とが詳細に記されています。彼はシメオン族のリーダーの一人です。リーダーには責任が伴いますが、 彼は律法に従わず、神に対して聖い生き方を捨て、欲望のままに生きました。モーセと民は人々が罪を
犯したことを悲しみつつ涙を流して悔い改めていました。そのような集まりの中をジムリは平然とミデアン の女性を連れて自分の天幕の奥に彼女を引き込みました。その時祭司ピネハスは二人の後を追い、天
幕に入り彼らを殺したのです。ピネハスはシッテムで多くの民が罪を犯すのを見るなかで、このままであ ればすべての民が罪を犯し、カナンの地に入れない危機感を覚えたのです。シッテムは約束の地カナン
のそばですが、そこはこの世であり、罪に満ち、欲望を満たすものが多くあるところです。聖書はピネハ スがこの世にいながら世俗に影響されず、罪に対処した行動に最高の賞賛を与えています。彼は神の
聖さの中で生き、この世の罪に対して毅然とした態度をとることで、神のみ心を人々に明確に示したから です。今の時代にもピネハスのような聖さに生きる人物が求められています。
神が求める人は単に立派な人ではありません。聖霊に満たされ、言葉においてまた行動において世の 光として神の聖さをはっきり表す人です。ピネハスは祭司として神殿で神に仕えていたということは、主の
臨在の中に生きていたことを表しています。異言で祈り聖霊に満たされ、礼拝の中でも満たされ、神の聖 さを表して生きましょう。
参照: 民数記 25:1~17