泉のほとり
2025年 5月
中学校の英語の授業で習った“能動態”、“受動態”の文法用語の記憶はとうに薄れてしまっているのですが、何年か前、古代ギリシャ語にはもう一つ“中動態”なるものがあると聞いて、ずっと気になっていました。何しろ新約聖書はギリシャ語で書かれているのですから、邦訳では理解しがたいフレーズもすんなり心に入ってくるのではと思っていたのです。嬉しいことに『クリスチャン新聞福音版』の中ページ下二段に『中動態の世界?心に寄りそう聖書のメッセージ』という連載記事があったのです。トラクトと合わせてこの新聞を配布して下さっている兄弟がいます。もし私のような人がいて、その家の郵便受けに入っていたら喜んで読むことでしょう。み言葉にある中動態の動詞を指摘されるごとに少しずつ理解が深まります。何でもかんでも自分が主体となって行う、あるいは逆に受身の立場に振り回される人生では、疲れてしまいます。執筆者の中村穣牧師はミッションスクールで中学生に聖書を教えているそうです。「聖書は『優しくしなきゃだめだ』と教えているわけではない。『神様は私たちが互いに優しく助け合うため、私たちを造ってくれた』」と。「互いに親切にしなさい」というパウロの言葉に従うにも強いられてではなく、また半ば義務的に自分が主体となって親切にするというのでもありません。中動態の言葉の示す世界が聖書の中にはあるのです。(I)