私の信仰
「その顔は、もはや悲しげではなくなった」
(Ⅰサムエル記1:18)
「ほくらは負けるために生まれてきたわけじゃないよ」10代の頃に聞いていた、あの歌の歌詞が30年以上経った今も心に響いている。最近、思い出せる限りの記憶を辿り、人生を振り返る時間を過ごしている。
生まれて間もない頃から人と比べて、早い、遅い。出来る、出来ない。計りの中で判定される成長記録。小学校 「できる」 「ふつう」 「できない」判定を受ける。成績表はまるで自分の価値の証明書。中学校 ランク付けの成績。下へ落ちるほど不安、孤独感は増す。すると、学校での評価と共に自己評価も低くなり、自尊心が欠けてゆく。その経験は大人になった今も消える事なく自分の一部になってしまった。 「そんなこともてきないでどうするの」不安になると聞こえてくる言葉。学校や社会から教わったこと、それは高めることのできない自己肯定感かもしれない。
あらゆることに影響を受ける多感な時期、私はほとんどの時間を負けることに費やしてきた。また、いくら努力しても変えることのできない出来事が多すぎること、現実から教えられた。「ヤングケアラー」当時は聞いたこともなかったこの言葉を耳にする度、悲しむ気力もなかった中学生の私が蘇る。自分という小さな器の中に怒涛のように流れ込む現実に、なすすべもなくただ無感情に一日一日を淡々とやり過ごしていた。自己という器が壊れたまま、この社会の要求に答え続けるために努力すれば認めてもらえるのだろうか。2 0 2 5年という時代を迎えた今もこの世界は生きづらさを抱えた一人の人の悲しみに寄り添うことよりも、優れた勝利者を育てることに費やしている。
「ぼくらは負けるために生まれてきたわけじゃないよ」心に響く言葉。互いに計り合いながら生きる複雑なこの社会。目に見えない争いも終わることはなく。世界中に不穏な緊張がますます深まっている。人は神に何を祈るのだろう。 「平和」だろうか。また「家内安全」だろうか。「家内安全」を検索すると最初にAIによる概要が出て来た。『家族や家屋にけがや病気、災いがないことを意味する四字熟語。家族全員が健康で安定した精神に活力がみなぎり、家庭が栄えるこどを願う祈願で、幸福の基礎とも言えます』と。 「幸福の基礎」が家内安全なのだろうか。家内安全の人生を送れたとしたら不安、虚しさから解放されるのだろうか。家族や自分が病気になってしまったら幸福ではなくなるというとヒだろうか。人生を振り返る中ではっきりとした思いが確信となる。それは、努力しても変わることのない悲しい出来事の中でしか祈れないことがある。
「この世と調子を合わせてはいけません」 (ローマ12:2 新改訳)
「人間による判定を受けることは、非常に小さなことです」 (Iコリント4 : 3 新改訳)
聖書に書かれたこのことばに「はっ」とさせられる。人を判定する社会に調子を合わせることなく社会の要求にコントロールされない生き方があるならば喜んでそう生きたい。自らを社会通念に照らし合わせ、遠慮がちに歩む今までの生き方に別れを告げ。全ての人一人一人は判定することが出来ないほど尊く価値ある者として今を生きている。与えられているいのち、誰かに判定されたり、さばかれたとしても、意に介すことなく、また誰のことをも判定したり、さばくことなく生きていくことができたら何と幸福であろうか。人生に残された日、残された時、すべては神の栄光のために。