私の信仰
「信じるということ」
聖日礼拝で歌われる聖歌の詞に聴きいってしまうことがあります。長い年月、世界中の教会で歌い継がれてきた歌詞に同じ思いをかみしめては勇気づけられています。先人たちの信仰の歩みを想っては励まされ、味わうごとに彼らのことが身近に感じられるようになりました。さらに新しい歌をもって主をほめたたえるとき、主の臨在にふれられ聖霊の恵みにも与ります。講壇から語られる聖書のみ言葉に眼を開かれ、気づきが与えられる経験もします。クリスチャンになったばかりの頃、子どもがまだ小さく、礼拝に来ても落ち着かない時期がありましたが、ある方が「来るだけでも祝福がありますよ」と優しく声をかけてくれたことを今でも覚えています。毎日曜日の朝、主の御前に出て礼拝をささげることは、とても大切なことです。
昨年語られた礼拝メッセージの中で特に心に残っている言葉があります。「信じるとは自分自身をささげること」、これは礼拝のあり方について語られたメッセージの中で詳訳聖書より引用された言葉です。「自分をささげる」とはどういうことだろうか?本論から外れて同じ言葉が何度も頭の中をめぐります。もう自分の年齢のゆうに半分以上も教会に通っているはずなのですが、クリスチャンとしてどのような生き方をするのか、あらためて問われているような気がしました。
10年以上も前のことだったと思います、うろ覚えながら大倉先生が語られたことがよみがえってきます。以下は私なりの理解です。私たちは現実の世界に身を置いてはいますが、軸足は信仰の世界にあります。降りかかってくる様々な問題は現実の世界で起こりますが、信仰の世界と現実、このふたつの領域が重なり合う部分で信仰によって解決を得ていく、と教えられたように記憶しています。私たちの立っている土俵は信仰の世界であることを再確認しました。
「ささげる」とは自分自身を差し出す、お委せする、身を投げ出す、与える、専念するなどの意味があります。ささげる相手は自分よりもはるかに大きな方です。むしろ受け入れていただける、ささげさせていただけることを喜ぶ謙遜な思いへと導かれます。私にとって、信じるということはキリストの中で生きることでもあります。もはや私たちのいのちはキリストの手の内にある、御霊の声に耳をすまし、よく聞いて歩みたいと願っています。詩篇23篇の作者は言います、「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」と。 来し方を振り返れば、なだらかな道、険しい岩場、ぬかるみや砂利道・・・歩く場所が問題ではなかったと、主がご一緒して下さった道ならば、どんな場所にもこんこんと泉のように湧き上がる喜びや平安、主の守りがあったことに気づかされます。
「あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、
キリスト・イエスにあって
神に生きている者であることを、認むべきである」
(ローマ人への手紙6:11)