私の信仰
「主にあって喜びなさい」
2023年8月13日の聖日礼拝は、大隅クリスチャンチャーチの染木忠志師をお招きし、「主にあって生きよ」と題して神様のメッセージを取り次いでいただきました。メッセージは、奥が深く、私がこれからお話しすることはその中の一部であり心に深く残った内容となります。
メッセージのなかで「主にあって喜びなさい」と語られたとき、あるSNSで投稿された内容が思い起こされました。その投稿内容は、がん治療中のクリスチャンの方でお祈りして手術を受けられたようですが、1回目の手術では不十分で2回目の手術を受けられ、さらに3回目の手術を受けることになったと言われていました。手術は非常に辛かったようで「主にお祈りして手術に臨んだのに何もなかった、もうキリスト教は信じない」と締めくくっておられました。その後3回目の手術を受けられたのか、手術が成功したのか、信仰を捨てられたのか分かりません。信仰生活を続けていると大小にかかわらず皆様もこのような経験があるのではないかと思います。
大半の方は「こんな時どうして喜べますか」と思うかもしれません。私も投稿者の方と同じ状況におかれたら「どうなんだろうか」と正直思います。毎日お祈りしても悩みが解決できない、いつになったらこの重荷から解放されるのかと思ったこともあります。
私自身の経験では、自分が「不幸」と感じる時、他人と比較したり、そのことに固執したりして自分で「不幸」という概念を作っていることが多いと思います。この「不幸」に捕らわれると何も見えなくなり何も聞こえなくなります。
「しかし、聖書に書いてあるとおり、
『目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、
人の心に思い浮びもしなかったことを、
神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた』
のである」(コリント第一2:9)
本当に主は働かれていないのか。自分自身と自分の周りをよくみてみるとその働きを必ず見出すことができると思っています。もし、何事もない日々が連続しているなら、それは主の働きによる奇蹟だと喜ぶことだと思っています。時間に追われて過ごしていると、季節の移り変わりの神の御業にも気が付かず、道端の美しい花に目を留めることもありません。
事実、あのとき辛くて辛くて死んでもいいと思っていても、今日礼拝で主の御前に立つことができ、そのことを喜びと感じている自分がいるからです。そして、副産物も備わっていることに気が付き「主にあって生きている」と実感できています。
信仰をしているから悩みや辛いことが起こらないということはありません。どうか皆様、どんなことがあっても「本当に主は働かれていないのか」もう一度、御言葉によって自分自身と自分の周りを見渡してください。そして見いだすことができたら主にあって喜びましょう。