大阪城東福音教会

私の信仰

「み言葉のわかち合い」


 祈ること、学ぶこと・・・教会では礼拝の他にいくつかの集まりが定期的に開かれています。集会の一つ「み言葉のわかち合い」は月に一度開かれており、その日の礼拝メッセージから教えられたこと、あるいは疑問に思うことなどを中心に自由に各々思うところを出し合います。理解を助け補足するのに、いくつかの異なる訳の聖書も参照にしています。1月の集まりのときにはマルコによる福音書4章21~25節から「聞く耳のある者は聞くが良い」と題して語られたメッセージからわかち合いました。加えて触れられた四つの種まきの譬え、さらにミナの譬え話より実を結ぶことにも関心が向かいます。

 いざ御言葉を行おうとするとき、御言葉を正しく理解できているのか、その判断の基準を探る問いから始まった1月の「わかち合い」は、前後の繋がりや全体の筋を考えに入れながら、神を愛し人を愛する福音の本質に照らすことの大切さを解釈の基本として進みました。四つの土地の種まきの譬えを聞けば、各々自分の心の状態を当てはめてみるものです。根がないから迫害にあうとくじけてしまうと信仰の弱さを話す人もいましたが、神様に礼拝を捧げる姿勢に、決してそうではないことを参加者の皆で受けとめました。ミナの譬え話では、預かった1ミナを商売もせず包んだままにした僕に対して厳しい裁きが言い渡されました。これを額面通りに読むと厳しさが際立ちますが、霊的に解釈すれば、この悪い僕の「ご主人様はきびしい方でおそろしかった」という言い訳は的外れではないかという意見が出ました。ここはこの世のことを言っているのではないのだから神様の目から見れば失敗という考えはないという理解です。

 祈りについても皆がどう捉えているのか、具体的に聞くことができました。例えば、隣の家に住むご高齢の方が体を悪くされた時に、早く回復しますようにと祈る気持ちが自然に起こされたというお話もあり、他者のことを思い案じることも祈りの一つであって、そうして信仰が深まっていくことを教えられました。また、祈祷会では課題をあげて参加者が心を合わせて祈ります。神様は一人一人の必要を全てご存じであるのに、祈る意味はどこにあるのかと考えてみると、人のために祈ることは回り回って自分のもとに恵みが運ばれ、信仰の成長にもなるといった体験的なお話しも伺うことができました。祈りは神様との対話であり、親しい交わりのときでもあるのだから、かしこまる必要もなく、ありのままの気持ちを申し上げてもよいという日々の祈りのあり方についてもわかち合うことができました。

 実際の信仰生活の中で疑問に思うことや、分からないこともあるかと思います。だれかと語り合うことで解決の糸口を見つけられたり、確認することが案外できたりするものです。信仰生活は一人きりで歩むより、同じ霊の糧をいただいている人たちとわかち合い歩む方が良い、そう感じさせてくれた会でした。