私の信仰
「心の目」
「曲がった手で」 曲った手で 水をすくう こぼれても こぼれても みたされる水の はげしさに いつも なみなみと 生命の水は手の中にある 指は曲っていても 天をさすには少しの不自由も感じない
これは志樹逸馬の「曲がった手で」という詩作品です。彼は13歳でハンセン病を発病し、25歳の時キリスト教の洗礼を受けました。そして1959年、長島愛生園で43年の生涯を閉じています。らい者のこと、神様のこと、十字架、聖霊、妻のことなどを詩のことばに紡ぎ、多数発表し続けました。手元にある志樹逸馬詩集に収められている作品はどれも心にすうっと沁み込んでくるものばかりです。上記の「曲った手で」は文字通りハンセン病に侵されて指が曲り掌が開かない手のことです。彼の苦しみや痛みを軽々に想像することができるなどとは言えませんが、彼はなみなみと手の中に生命の水のみちるのを詩にうたっています。何ということでしょう、志樹逸馬が見ていたのは肉眼では見えない霊の世界であり、読んでいる私にも同じ景色を見させてくれているように思います。彼は妻のことを「いつも天を仰ぎ、心明るくひとすじに歩んで動揺がない」と表現しています。良き伴侶と暮らす何気ない日常にも神様の存在が色濃く感じられ、詩を読むことで信仰を同じくするキリスト者として、彼が示してくれたことの豊かさに気づかされます。
めまぐるしく変わってゆく世の中に疲れをおぼえたり、失敗を繰り返す自分に嫌気がさしたりすることもありますが、そんな時「曲った手で」を読むと異なる景色がみえてきます。そして障害や困難、つまずきを経験する最中にも湧き上がる生命の水の満ちてくる世界を心の目は見ることができるのではないかと励まされます。もう一篇「教会への道」という詩の中では、視力を失った彼が神のことを考えながら歩き、杖にふれる世界を実在として体験したいと書いています。心の目で見る世界が現実と隔たりなく存在しうることを教えられたようで、私は勇気づけられました。