私の信仰
「神様の最善」
「主人がね、難病になったんよ」久しぶりに会った友人が、淡々とした口調でぽつりと呟きました。子育ての時期を互いに祈り合い、励まし合ってきた十数年間の日々はつい昨日のことのように思われます。ご主人の身体に異変が現れたのは定年を迎えようとする頃、診断名は「多系統萎縮症」、脳の病気です。歩行時にふらつきがあること、また性格も本来の穏やかさがなくなり、大きな声であれこれ指示を出すようになったと彼女は話します。そして発症から持って九年と医師から説明を受けたとのことでした。「残念ながら現在のところ有効な治療法がない」この現実に気持ちが沈んだに違いありません。けれども彼女の口からは、癒されるよう祈ってほしいという言葉はありませんでした。ご主人の救いのために長い間祈り続けていることを私はよく知っています。温厚で優しい人柄だと聞いていましたが、妻の信仰に理解を示していたとは言え、一緒に礼拝に来るような方ではなかったと記憶しています。
しかし次の言葉を聞いたとき(不遜ながら耳を疑ってしまったのです)、私は主を賛美せずにはいられませんでした。「今ね、主人は牧師先生から定期的に聖書の学びを受けてるんよ」。難病と言う厳しい状況に身を置くようになっても、そこにこそ主の臨在があり、御手が働かれているということではないでしょうか。不治の病を宣告されたからと言って、すぐさま魂の救いを求めようとする人ばかりではないでしょう。反って、神も仏もあるものかと捨て鉢になる人もいると聞きます。神様が心を開かれたのでしょう。
神様は一人ひとりを愛し、それぞれにご計画をお持ちです。そして私たちは祈ることによって、ほんのわずか関わらせていただいているのではないかと思うのです。自分の願ったことが叶わないと失望してしまいがちですが、祈りが聞かれないことはありません。ただ、どのような形で聞かれるのか知らされてないだけではないでしょうか。思いもよらない方法で示された神様の最善は祈り続けてきた者に喜びをもたらし、愛されていることの確信を与えてくださいます。
身体機能と言語のリハビリに通うご主人との暮らしにも変化があるようです。今は、どう向き合えばよいのか戸惑いもあるのでしょう。私は友人から話を聴くうちに、これから神様がどのように働かれるのか、むしろ期待が膨らんできました。
私には、いつも心に抱いている御言葉があります。礼拝説教で何度となく触れられた箇所、いつの間にか胸の奥底まで降りてきて留まるようになった御言葉です。
「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」(創世記1:2)新改訳聖書では「神の霊が水の上を動いていた」と訳されています。私たちの人生には予測できない出来事に見舞われることが往々にしてあります。病気や別離など深い悲しみの淵に追いやられる経験もするでしょう。しかし、形なく空しく広がる闇の表面を神の霊は初めから動いていたのです。何と励ましに満ちていることでしょう。主の御名をほめたたえます。