大阪城東福音教会

私の信仰

「ヨハネの子シモンよ、私を愛するか?」


 福音書を読んでいると、他の弟子たちに比べ、ペテロの登場する頻度が高いからでしょうか、そのキャラクターに親しみを覚える人は少なくないと思います。率直なもの言い、まっすぐな気性、思ったことをすぐに口にし、行動に移す人物、それでいて、とても謙遜な心の持ち主であることがうかがえます。私たちの耳に馴染んでいる「ペテロ」という名称はイエス様がつけた名前です。もともとは「シモン」、「ヨハネの子シモン」です。

 このペテロとイエス様との対話から教えられたことがあります。それは今年1月9日、遊津兄が語ってくださった礼拝メッセージ「人間をとる漁師となったペテロ」の中からです。いよいよイエス様が捕えられようとする夜、「あなたのためには、命も捨てます」(ヨハネ13:37)とペテロは告白します。これは決して偽りではなく本心から出た言葉でしょう。それに対し「鶏がなく前に、あなたはわたしを三度知らないと言うであろう」(13:38)とイエス様はおっしゃいました。マタイの福音書では「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません」(26:35)とペテロの言葉が続きます。果たして、その後イエス様の言葉どおりになり、激しく泣いて悔いるペテロの姿を見ることになります。

 取り返しのつかないことをしてしまったと、自責の念に苛まれる経験をすることがあります。怖れが弱さを露呈させる、考えを働かせる余地もなく、それはとっさの行動に現れ、人間のもろさを如実に表します。その直後におそってきた恐ろしい後悔をペテロはどんな気持ちで味わったのだろうか、考えるだけで胸が痛みます。

 さて、遊津兄の語るメッセージを聞いていますと、ある箇所で大きな発見がありました。十字架の後、弟子たちにお姿を現されたイエス様が「私を愛するか」と三度ペテロに問う場面(ヨハネ21:15-17)です。原語のギリシャ語では、一度目と二度目の「愛するか」は、命を捨てる自己犠牲の意味を持つ「アガパオ―」であるのに対し、三度目の「愛するか」は兄弟愛を表す「フィレオ―」だと。それを聞いた瞬間、光の洪水が胸の内になだれ込んできたような感覚をおぼえました。ペテロは問われたままの「アガパオ―」では返せなかったのです。彼の心情を察するに、命を捨てるとまで言っておきながら裏切ってしまった自分が、どうして再び自己犠牲の愛を告げられようか、彼の本来の性格を考えると深く心を痛めたままだったことが分かります。そこでイエス様はペテロの気持ちを汲んで、三度目には親しい兄弟、友を愛する意味の「フィレオ―」で問われたのです。弱さも愚かさも承知の上、責めるわけでもなく主の眼差しは深い愛情で満ちていたことでしょう。それでも後にペテロは「アガパオ―」に応える生き方をしたのです。

 もう一つ、イエス様の細やかな配慮を覚えた場面があります。ペテロはイエス様に出会って間もない頃、おびただしい魚が網に入っていたという御業(ルカ5:4-11)を体験しているのですが、父のみもとに上られる前にもイエス様は同じ御業(ヨハネ21:6)を再びお見せになるのです。「人間をとる漁師になる」と言われ、すべてを捨ててイエス様に従ったペテロ、彼が持っていた初めの信仰へと回帰させる、言わば、いやしの過程を創出しているようにも思えます。

 礼拝メッセージで教えられたことは、とても新鮮でした。原語に含まれる意味を知らなかったこと、単純に三度という回数の呼応として見過ごしていたということがあったのかも知れませんが、イエス様のご性質の一端を示していただいたことは、ありがたく大きな恵みとなりました。