私の信仰
「主の恵みあふれて」①
―次女のこと―
よわい80を越えて、人生を振り返ってみれば、主の恵みの数々が走馬灯の如く浮かび上がります。もしあの時、イエス様に出会っていなければ、そう考えるだけで目頭が熱くなってきます。
大阪の天六で生まれ育った私は、若い時分から自立心が強く、兄や姉妹たちの中でもしっかり者として、頼られる存在でした。事実、女性にも経済力が必要だと早くから考え、寝る間も惜しんで働きました。もともと仕事が好きでしたし、いつの間にか貯えも充分すぎるほどできました。やがて縁あって結婚し、娘3人を授かりました。
ところが、成人した次女に家族を悩ます大きな問題が生じたのです。ボランティアに参加すると言って、家を空けるようになった娘が、実は統一協会に入信していたのです。それは当時、著名人や芸能人の話題で世間を騒がせていた宗教団体でした。キリスト教を名乗りながら、間違った教えを信じ込ませる全くの異端だったのです。
「統一協会の信者以外は皆、悪魔や」
「ほんなら、お母さんも悪魔なんか?」
「そうや」
たまらなくなった私は、そう答える娘を頭から強く抱きしめました。その時のことを思うと、また涙が止まらなくなります。次女は小さい頃から手のかからない子で、親の手を煩わしたことは一度もありません。
私たち家族にとって、それからの半年ほどは次女を脱会させるための苦しい闘いの日々でした。幸い、知り合いのつてで聖書を正しく学ぶ機会を得ることができました。大倉牧師先生が足しげく家に来て下さり、私たち夫婦は聖書を学び始めました。主人は教会がどんなところなのかと、礼拝にも出席しました。そして統一協会の施設で暮らしていた次女が、季節の変わり目に服を取りに帰ってきた機会を逃さず、二度と施設には返しませんでした。統一協会を出た次女を連れ戻そうと信者が家にまで来て、外から大声で呼びかけることもありました。
次女は私たちと一緒に聖書の学びを受けるようになりましたが、始めの頃は、牧師先生に対して敵意をむき出しにし、睨みつける有様でした。次女を脱会させることができた時に、大倉先生がおっしゃった言葉が忘れられません。「よく取り戻すことができましたね。なかなか難しいことなんですよ」と声をかけてくださいました。
次女を脱会させるためにと始めた聖書の学びでしたが、回を重ねるごとに私自身も少しずつ変えられていくのが分かりました。経済力さえあれば離婚してもかまわないとさえ考えていた私が、後々主人に対しても素直な気持ちで感謝できるようになったのです。
当時、貸会場だった「ローマの休日」を初めて訪れた時、教会のイメージとはあまりにもかけ離れていて薄暗く、場所を間違えたと思いました。後に現在の会堂が建てられた際、結婚前に貯えたお金を教会債として用いていただけたことに感謝しています。会堂建設のための祈り会に参加した時、私は激しい聖霊の祝福に与りました。そして今に至るまで聖霊の恵みは尽きることなく注がれています。肺炎を起こしかけて、臥せっていた私が、祈りを通して心身ともに鮮やかに癒されたこともその一つです。 (次号に続く)