私の信仰
「祈りの手帳」
毎月の祈祷会の司会の担当になって2年目になりました。このような者の司会でも参加していただき心から感謝しております。「祈り」について私のつたない経験ですが紹介したいと思います。
信仰を始めて5年ほど経ったころ、日々の祈りの課題を書いた「祈りの手帳」を作り、祈りが聞かれたときに、その年月とコメントを書いて消していくようなことをしていました。今はもうしていませんが、当時の祈りの課題を振り返り、主の恵みの深さを痛感しております。
当時の祈りの課題は、仕事で業績が悪化したこと、経済面での不安、仕事のトラブル、なかなか子供ができない娘に子供を授けてほしいという祈り、結婚した娘の幸せ、母親の健康、子供たち孫たちの健康、仕事上の交際と信仰との隔たりの悩みなどでした。
手帳の課題を読み返してみると、一つの共通点のあることに気づきます。それは、自分中心の悩みや不安の事柄であることです。
悩みや不安は、心の本質が変わらない限り、それが主に聞かれ成就しても、また次の不安が生まれます。表面の目にみえる事柄自体が解決されないと信仰のつまずきになってしまいます。例えば辛い事柄が癒されたとしても、次にまた辛いことが起こるのではと不安になってしまいます。私も例外ではなく、過去の辛い出来事がトラウマになり、起こってもいないことを不安に思い課題にあげて祈っていました。
10年後に振り返ってみると、自己中心から主の御旨中心へと少しずつ変えられていることに改めて気づかされています。例えば仕事の事や経済面の不安の本質は、自分で握っている頑な心を主に委ねることで解消されている事実です。また、抽象的な課題を除けば全て主の御旨の中で成就し、どれ一つ聞かれない祈りの課題はありませんでした。
「祈り」は大切です。その時のありままの自分で祈り、それに主が働かれる時、大いなる恵みが注がれて、心の本質が変えられ平安の中に導かれます。
「何事も思い煩ってはならない。
ただ、事ごとに、
感謝をもって祈と願いとをささげ、
あなたがたの求めるところを
神に申し上げるがよい。
そうすれば、
人知ではとうてい測り知ることのできない
神の平安が、
あなたがたの心と思いとを、
キリスト・イエスにあって守るであろう」
(ピリピ人への手紙4:6-7)
そして聖書の御言葉も大切です。主は御言葉を通して自分では気づかない心を鏡のように映しだしてくれます。イエス様が私たちに望んでおられることは、自分では気づかない頑な心を砕いて信仰の本髄に導き「永遠の命」を得させることだと確信しています。
この体験を毎月1回の祈祷会にも少しでも生かせられるように努力していきたいと思っております。礼拝後お時間がありましたら一度参加してみてください。まだまだ信仰の弱いものですが、これからも祈りと御言葉を通して教会の皆様と一緒に成長していきたいと願っております。