大阪城東福音教会

私の信仰

「16年前の洗礼を通しての恵み」


 私が洗礼を受けたのは2005年6月5日(日)で、もう16年の歳月が流れました。当時、ご健在だった大倉先生に礼拝堂の講壇下の洗礼漕で「イエス・キリストの御名によって」洗礼を授かりました。沢山の兄弟姉妹が立ち会ってくださり今でもその時の光景を思い浮かべ感謝しております。

 この同じ日(6月5日)「福音のしもべ」の中の「キャッスル」275号では、「救いの恵みは信じることから」と題して大倉先生が語っておられました。この中で「・・・教会に行きはじめた時、牧師が人差指を会衆に向けて『あなたは罪人です』とよくいわれました。或る面当たっていると認めつつも、自分にはまだまだ良いところがあると思っていました。それからしばらくして礼拝の後の祈りの時でした。突然これまでの生涯が走馬灯のようにして示され、100%私は心と思いでも罪人であることを認め、イエス様を救主として受け入れることができました。
・・・イエス様だけが御血潮を流されることで救いの道が開かれました。・・・」そして最後に「信じることのすばらしさ知ることが信仰の恵みであり、感謝の深みにつながっていくのです。」と締めくくられていました。  私も大倉先生と同じような経験をしました。自分の過去の出来事が走馬灯のように次から次に写しだされ、罪人であることを心から悟ることができました。

 振り返ってみて、洗礼を受けた前と後では自分の生き方が劇的に変化し少し信仰の深みに進んでいることに改めて気づかされました。また、洗礼を授かったその日がきっかけで「福音のしもべ」をじっくり読むことができ恵みを受け取ることができました。
 さらに、これを機に私の洗礼とは何かと改めて考えてみる機会となりました。洗礼とは、恵みや救いを受ける条件ではないと思います。洗礼を受けなくとも信仰をもって歩んでおられる方もいらっしゃると思います。でも、洗礼は、これからイエス様と共に歩む意志を神であるイエス・キリストに示し、生まれ変われる機会を与えてくださるものだと思っています。洗礼を受けたから悩みの解消や心の安らぎが与えられる訳ではありせんが、イエス・キリストを救い主と信じ共に歩む人生において、その前とその後を明確に分けることができる分岐点になると思います。そして、大倉先生が語られたようにイエス・キリストを信じることのすばらしさを知り、さらに感謝の深みが増していくのだと思います。

 未だ洗礼を受けておられない方、イエス様によって救われていると信じておられるなら、なるべく早く洗礼を受けられるようお勧めします。2度目の誕生日を人生に刻みイエス様と共にお祝いしましょう。人知では計り知れない恵みが待っていると信じます。