私の信仰
「ぶどう園の労働者」
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」これは伝道の書12:1に記されている言葉です
が、年老いてイエス・キリストとの出会いを体験する人もまた幸いであろうかと思うのです。さほど深
い交流のなかった方の生い立ちを召天式で知ることがあります。遺族によって語られる故人の歩みは長
ければ長いほど労苦に満ちたものです。人生はたとえて言うなら荒海に舟を漕ぐようなものでしょう
か、重い荷を背負って山を登るようなものでしょうか、だとすれば永遠の休み場を得た者の安らぎや喜
びはどれほど大きいことでしょう。
福音書の中には数多くの譬え話が記されています。マタイの福音書20:1-16に記されているぶ
どう園の譬えもそのひとつです。ぶどう園の主人が労働者を雇うために夜が明けると同時に出かけ、1
日1デナリの賃金を約束し労働者たちをぶどう園に送ります。夕方の5時ごろにも出かけて行って、市
場で何もせず立っている人を同じ条件で雇います。ところが報酬の支払われる段になって、朝早くから
ずっと働いてきた労働者たちは、最後に雇われた者たちと自分たちが同じ賃金であることを不服に思
い、主人に向かって不平をもらすのです。おおかたの人はもっともな訴えだと思うでしょう。福音書を
読んでいると、世的な考えと神の国をことさら対峙させて示している場面に出くわします。依然として
人間の内にすくう弱さや不完全さにも目を向けさせてくれます。ぶどう園は天国のたとえです。人生の
最後の坂でイエス・キリストに声をかけられた人が得た1デナリは天国の恵みであり、永遠の命である
と思うのです。魂の救いは十把一絡げのようなものではなく、極めて個人的なかかわりを通してなされ
るものではないでしょうか。いつ、どこで、どのようにしてイエス・キリストを知るのか、実に細やか
な導きが一人ひとりにあると思うのです。「求めよ!」と聖書は何度も語りますが、ぶどう園の主人は
みずから出向いて行って声をかけました。黙示録3:20では戸の外に立って叩いているのはイエス・
キリストであると教えています。
歳月を重ねるうち、肉体は衰え、周りを取り囲む環境も変わります。家族や友人のことを思うと、救
いが遠のいたかのように見えることもありますが、イエス・キリストの導きを信じて祈り続けたいと思
います。