私の信仰
「Peace(ピース)-神の 平安」
老いた身に穏やかな暮らしを望んでも、生きている限 り悩みは尽きないようだ。思いがけず病を得ることもあれば、自然災害に見舞われる こともある。成人した子らが持ち込む問題や相談事も悩ましい。
心に憂いがあれば気はふさぐ(箴言15:13)
魂の憂いは骨を枯らす(17:22)
人間とはそういうものだとつくづく思う。
平安という言葉を聖書の中に探したらどれほどあるだろう。暴風に吹かれ海の波に のまれそうになった舟の中、慌てふためく弟子たちをよそに、イエス様だけは眠って
おられた!(マタイ8:24)不安や怖れの感情を御することなどそう簡単に出来る ことではない、安易に大丈夫と念じてみても何の保証もないのだから。
まだイエス様を信じて間もない頃、ピリピ人への手紙(4:7)に〝人知ではとう ていはかり知ることのできない神の平安〝があると読んだ時、これは一体どんな境地
なのだろうと不思議に思い、さらにヨハネ(14:27)には〝私が与えるのは世が 与えるような平安とは異なる〝とも記されていて、渇望は強くなる一方だった。遅々
とした信仰生活の中にあっては、安定を欠く心は、事あるごと容易に騒ぎたち、足場 を失ってしまう有り様であったと思う。それでも幾つもの波を漕ぐうちに、少しずつ
ではあるけれど〝神の平安〝を頂く恵みの大きさ、神との和解がもたらす信仰の力を 知るようになった。そしてその確信を保証して下さる聖霊を内に賜わっていることも
何と幸いであろうか。御言葉を心深くに留める、もはや諦観に支配されることもな い。「どうか、望みの神が、信仰からくるあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満
たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。」 (ローマ人への手紙15:13)
世の移り変わりに伴って社会通念や規範も変化してゆくのだろうか、人の心の在り ようも変わってきたように近年感じている。それはキリスト教界とて同様なことが言
えるのではないだろうか。〝きのうも、きょうも、いつまでも変わることがないイエ ス・キリスト〝このお方を信じてある平安を感謝しつつ、信頼して歩んでいきたいと
思う。主は言われる、一切の思い煩いをゆだねよと。