私の信仰
生かされていると感じる恵み
私は以前ローマの休日にあった大阪城東福音教会に通っておりました。数年間通いましたが離れてし まい、昨年末に10年以上経って戻ってまいりました。私が元々教会に通うようになったきっかけは、学生
時代に姉が障害を持ったことが大変ショックで悩み、親子関係もこじれ、社会人になっても上手く職場に 適応できず、悩みは深まり、電話で吃音になりました。そのことが大変辛くなりました。それで、必死にす
がる思いで、教会に通うようになりました。
そのときに感じたことは、弱い時にこそ強いという世間とは逆の発想、教えが大変な恵みでした。弱さを 誇ってもよいのかなぁと思うと何か不思議な感覚が得られました。
しかし、当時はまだ自分は半信半疑な面が多々あり、また仕事の忙しさなどから教会から離れてしまい ました。しかし、そのような私をも主は顧みられ、吃音はいつしか治りました。祈りは、それが実るには時
が必要な場合もあるのだなぁと感じます。また、このような会堂が与えられるとは、当時としては想像でき なかったので、信じて祈り続けることの大切さを感じます。
今は頭痛や不眠症等に悩まされています。このような問題も主に信じて委ねていけばきっと癒されると 信じております。また、時に親が赦せなく感じるときもありましたが、そのような私をもイエス様は変えてく
ださりつつあります。私は教会へ通うことや聖書を通じて、主が私の創造主であることを感じるようになり ました。主が創造主であるということは、私は自分で生きているのではなく、生かされているように感じら
れます。自分が生かされていると思うと、自分の持つコンプレックスや様々な悩み、思い煩いから解放さ れるように感じ、気持ちも楽になってきました。このように、私を泥の沼から引き上げ、心にあった闇を照
らしてくださり、自分を変えてくださりつつあることが、大きな恵みであり、感謝です。
「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます。」とあり、疑わず信じて身を 委ねたいと思います。また、これから先も色んな困難な状況に出くわすかもしれませんが、この土の器の
中に宝を持つことにより、途方にくれても行き詰まらず、倒されても滅びないという思いがあれば本当に 心強いです。内なる人を日々新しくしてくださり、何かあったとしてもいつも新鮮な気持ちで一日一日を大
切に過ごしていきたいと思っています。