私の信仰
インマヌエルの恵み
「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、
どんなに大きな愛を父から賜ったことか、
よく考えてみなさい。」
(Ⅰヨハネ3:1)
いったい私が何者で、何ゆえに救いの恵みにあずかることができたのでしょう。取るに足らない者の為 に命を捨てるほどの価値などあろうはずもありません。その落差の大きさに自分がどれほど深く愛されて
いるのかが分ります。十字架の苦しみを受けなければ許されない罪の重さは、私を身震いさせます。イ エス様が私にしてくださったことを思うと、見出されたことへの驚きと喜び、感謝は年毎に増すのです。
イエス様との出会いは20年経った今もまるで昨日のことのようにはっきりと覚えています。深夜祈って いますと前方から誰かが歩いて来られるのが分りました。ゆっくりと、しかしその足取りには大きな波が
押し寄せてくるような力強さがありました。私はあまりの畏れに一瞬たじろぎましたが、思いきって心の扉 を開けました。このお方がイエス様?―聞いてはいた「聖霊の満たし」ですが、想像をはるかに超えるも
のでした。それまで理解できなかった御言葉が少しずつではありますが、私の霊にまで届くようになりまし た。
「人を生かすものは霊であって、
肉はなんの役にも立たない。
私があなたがたに話した言葉は霊であり、
また命である。」
(ヨハネ6:63)
確かにイエス様が語ってくださった御言葉は霊であり、私を生かしてくださいます。イエス様こそがいの ちの言です。
問題を前にして惨めで無力な自分を見る時、全身から力が抜け喪失感に見舞われることがあります。 そんな時、祈りに導かれるまま、主の前に静まっていると「何事も思い煩ってはならない。」とピリピ4:6-7
が示されました。御言葉が開かれ、私の内に成った時、祈り求めたことがすでにかなえられたと知るので す。たとえ事態は変わっていなくても心の内は神の平安で満たされ、喜びが湧き上がってくるのです。
今まで何度か癒しの体験もさせていただきましたが癒される前に確信が与えられることがありました。 そんな時、心は騒いでいても、自分の霊は小躍りし、喜びと賛美にあふれているのです。主が内に住み、
御言葉をもって導いてくださいます。日々共に歩んでくださるその恵みは測り知れません。
「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです。」
(詩篇23:4)
ハレルヤ!